「ピアノって楽しい!」その一途な思いは
言葉を超えて人々の心に響き渡った
ピアニスト:
伊藤仁美さん
いろいろなものに興味があった子供時代、
実はピアノの練習は好きじゃなかったんです
ピアノが好きな人なら、ウィリアム・ギロックのピアノ曲を耳にしたことがあるのではないだろうか。ギロックは戦後に活躍したアメリカの作曲家・音楽教師だ。ピアノの教育や普及に力を入れ、ピアノを学ぶ子供たちのために多くの魅力あふれる曲を残した。彼の曲は耳に馴染みやすく楽譜も読みやすいため、日本でもピアノ初心者や指導者から絶大な人気を得ている。近年は、その楽曲の魅力がベテランのピアニストにも注目され、人気は高まる一方だ。
このギロックの楽曲を日本に広めた功労者の一人が、ピアニストの伊藤仁美さんだ。伊藤さんは自らピアニストやピアノ指導者として活躍する傍ら、「ギロック協会」の主宰として講座を開いたり、「ギロック オーディション」を開催したり、音楽雑誌に連載を執筆したりして、ギロックの魅力を多くの人に伝える活動を続けている。
もちろん、ギロックだけではなくさまざまな作曲家の楽曲も演奏し、多数のCDをリリースするほか、全国各地でトークコンサートを開催、テレビやラジオに出演など、その活躍は多岐にわたる。2022年11月19日には、戦乱の続くウクライナを支援するため、名古屋アイクリニック主催のチャリティーコンサートに出演した。コンサートは同クリニックに新しく作られた「アートサロンOPTICA(ラテン語で「光学」の意味)」で行われ、伊藤さんはトークとピアノ演奏で会場を沸かせた。そんなお忙しい毎日を送る伊藤さんに、日頃の活動や音楽への思いについてお話を伺った。
―― ピアニストとして演奏するだけでなく、セミナーの開催やご執筆など多方面で活躍されていますが、いつからピアノに触れ、どのようなきっかけでピアニストをめざすようになったのでしょうか。
伊藤仁美さん「初めてピアノに触れたのは5歳くらいの頃からですね。もともと私の両親が、ピアノが好きだったんですけれども、自分たちは戦争のためピアノが買えなくて、娘が生まれたらピアノを買おうという夢があったんです。一番初めに、「卓上ピアノ」ってありますよね、小さな、ちゃんと黒鍵がついていないような・・・それを買ってもらい、歌が好きでよくレコードも聞いていたので、知っている歌を好き勝手に弾いていたのが始まりです。それから、ピアノにあこがれていた両親が、それこそ、家にテレビも洗濯機も何にもないときに、アップライトピアノを買ってくれたんです」
―― 卓上ピアノ、懐かしいですね。はじめは遊びの中にピアノがあったんですね。
伊藤さん「そのあと、『名古屋音楽学校』というところのピアノ教室に入って、そこからお稽古を始めました。幼稚園のうちには個人的にレッスンを受けるようになって、ブルグミューラーとかメトードローズとかを弾いていたんですけれど、実は、あんまりピアノの練習が好きじゃなくて(笑)。一応続けてはいたんですけれども、それほど一生懸命じゃなかったんです。小学校、中学校のうちは学校が優先で、『なんでも屋さん』みたいに、絵が好きで美術クラブに入ったり、医学に興味があって生物クラブに入ったり、小説を書いてみたり、生徒会に入ったりして。ピアノは本当にお稽古ごとの1つでしかなかったんです」
伊藤さんは「なんでも屋さん」というが、それは美術的センスも文章力も、人を率いる力も子供の頃から秀でていたということだ。その多才ぶりは、伊藤さんのホームページを見てもわかる。とても洗練されたスタイリッシュなデザインで、添えられた文章も奥深く、豊かな知識や感性が伝わってくる。それでいて、伊藤さんご本人は物腰が柔らかく、明るく温かい笑顔が印象的だ。きっと、どの道を選んだとしても、成功していたのだろうと思う。
―― 子供の頃から多才だったんですね!その中から、どうしてあまり練習していなかったピアノの道を選んだのでしょうか
伊藤さん「中学校1年生の時に、桐朋学園の学長さんが名古屋にいらして、子供たちの演奏を聴いてくださる機会があった時に、音楽学校へ行かないかと勧められたのがきっかけなんです。それまで、コンクールに出たことも人と比べたこともなくて、高い目標があったわけではないんですけれども、私のお友達が桐朋を希望していて、その先生のレッスンを受けるというので、私もついでに見ていただいたんです。そのときに、なにか私に面白いものを見つけてくださったんでしょうね。それで声をかけていただいて、言われるままに(笑)。その頃、あまりにもいろいろなものに興味があって、なんでも屋さんのようにあれこれやってきて、このままでは何にもできない人になってしまうという不安がありました。ピアノひとつに絞って、集中してやれば、少しはなんとかなるかなと思って(笑)」
―― 桐朋学園といえば、音楽を志す人にとっては名門中の名門ですよね。ご両親もさぞ喜ばれたのでは?
伊藤さん「それが、ピアノを応援し続けてくれた両親が、東京の音楽学校に行くということにものすごく反対したんですね。その頃、桐朋は高校のレベルが高くて、行くなら高校から行かなくてはいけないと言われていたんですけれども、高校から東京に行くということは、親にしてみたら大変なことで、もう大反対しまして。でも、反対されるとやっぱり余計に行きたくなるんですよね(笑)。ピアノというのは、モーツァルトやベートーヴェンといった大作曲家が作った曲を練習すれば弾けるようになるんですから、才能がないとしても一生懸命やればなんとかなるかなと(笑)。そんな気持ちで、大きな希望や目標を持たずに入学したんです」
―― そうはいっても、桐朋高校に入学できただけでも才能があるということだと思います。親元から離れて、桐朋高校・大学時代はどのように過ごされたのでしょうか。
伊藤さん「入ってみたら、もう天才児ばかりがいるじゃないですか。入学してから、やはりピアノにも才能が必要なんだと思いましたね。その頃のコンクールの入賞者のほとんどが桐朋で、隣の練習室の人もコンクールで1位を取ったスゴイ人だったんです。そういう人の中で揉まれたというのは、勉強になりました。それに、名古屋にいた頃は(プロのピアニストが弾く)ピアノの演奏会というのはほとんどなかったのですが、東京に出てから毎週のように演奏会に行く機会がありまして、いい演奏を聴くようになってから、『ああ、なんてピアノは素晴らしいんだろう』と魅力に気付き、目覚めましたね」
―― では、高校に入ってからピアノに対する意識も変わったんですね。
伊藤さん「そうですね。でも、当時の日本では、まだつまらない演奏が多かったものですから、もっと面白く弾きたいというのがあって。桐朋に入ってからは本当にピアノの練習ばかりしていましたね。寮に入っていたんですが、毎日朝5時から夜10時まで、学校の授業以外はテレビも新聞も見ずに練習して、ピアノ中心の生活をずっと続けていました。私はすごく指が弱かったり、体が硬かったり、いろいろな欠点があったものですから、そこそこ成績はよかったものの、結局大きな結果は出せずに卒業しました。ただ、音楽が好きだったことと、せっかく親の反対を押し切って入ったんだからピアノが上手くなりたいという思いで、本当に遊ぶ間もなくがむしゃらに練習をしていましたね」
―― 卒業されてからも、ピアノは続けられたんですね。
伊藤さん「卒業してからが本当の勉強でした。ただ、卒業したらすぐに名古屋に帰って結婚するという条件で東京に出してもらったものですから、留学などは考えずに帰って、もう次の年には結婚しました。親を安心させるために結婚はしましたが、名古屋音楽学校に就職もして、自立してから、自分のやりたいことをやってきましたね(笑)。就職後、新人演奏会で一番いい評価をいただいたんです。それからは新人演奏家としていろいろなところから演奏の機会をいただいて、否応なしに演奏活動が始まりました。とにかくピアノはずっと続けて、練習をし続けなければということで、大きな夢を持ったことはないんですけれども、『もうちょっと弾けるようになりたい』、『もうちょっとうまく弾きたい』と思いながら、ひたすら続けてきただけです(笑)」